カテゴリー : ★日本共産党

大きな波の歴史

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  1. 社会発展と国民生活を抑えこむ害悪の根源をつかむ
  2. 害悪を取り除こうとする勢力と、害悪に固執する支配勢力との闘争

「歴史を開くのは主権者国民の自覚と運動です。時間はかかっても、未来に立ち向かう国民の探求は必ず社会をゆがめ生活をおさえつける害悪に立ち向かう方向に発展します。

新しい政治を開く先頭に立っているという確信、日本の政治しに深く裏付けられたこの確信を胸に、広い視野と展望を持って力を尽くそうではありませんか。」

清水ただしの「派遣村TV」

★HAKENMURA.TV | 清水ただしの派遣村TV☆

2010年、日本共産党の参議院選挙大阪選挙区候補者だった清水ただしさん。

プロフィール:清水ただし


それにしても、大阪市議団のサイト、無残。

★こんにちは!!日本共産党大阪市議団です

新着情報2008年1月30日。。。。。これでは、これが実態ですか。
しかし、サイト内を見てみると放置している訳ではないらしい。新しい記事もある、なのになぜサイトトップに反映されていないのか。

サイト作成ツールのせいなのかなあ。ネット時代に対応した支援体制を考えないと。。。。

なぜ、共産党は・・・考察

●理解と共感を得る努力と実践がどれほど出来ていたのか。

末端の党員にとって、国政レベルの話ではなく、日常レベルの話をおっちゃんやおばちゃん、お兄ちゃんやお姉ちゃん、同僚や友人たちと話し、理解と共感を得ることが重要であり、地域の政治や社会問題への問題意識が彼らの理解と共感を得るレベルになっているのかが重要ではないだろうか。「聞く力」や「自分の言葉で語る」ことが日常的な問題での意識として、合意と納得を得る実践が必要だと思う。多数の信頼を得ない限り、多数の支持は得られない。日常的な生活レベルでの共産党への評価が、地域の政党、政治団体として信頼を得る存在になっているかどうかが問われると思う。

理解と共感を得ることの難しさを自覚しているか。
相手の心に届く言葉で語れるか。
自らが紡ぎ出した言葉を語ることができるか。

党の綱領や決定には地方政治の普遍的問題点への指摘はあっても、各地域の具体的な問題への言及はない。それを実行するのは、支部であり、党員一人ひとりの自覚と行動なのだろう、議員だって同じことだ。
地方政治の中で「オール与党」と言い切ってしまった時、「独善的」と非難されても仕方が無いと思う。それぞれの立場に立った「正しさ」があるだろうし、論理があると思う。いかに自らの主張を、多数の人達、他党派の議員に理解と共感を得る試みをするか、その目的意識が自覚的、自律的に求められる。

生活圏内の政治的、社会的問題について多数の人たちと問題意識、問題提起が共有出来ているか、「上から目線」「共産党目線」になっていないか。また、自らの問題意識を多数の人たちの理解と共感を得る活動、言論になっているか。『住民が主人公の政治』『国民が主人公の政治』とは行政情報を共有し、開かれた議会を実現し、行政運営に住民の意見が反映される自治体を実現することが共産党の議員の任務ではないだろうか。

地方自治法で保障された議員の議案提案権や、憲法で保障された請願権は合意形成のための武器ではないだろうか。また、共産党の議員が尽力したという『情報公開条例』なども、住民と共に政治を変えるための武器となるだろう。そのためには、政治単位である支部や共産党の議員が自分たちの地域の行政の条例や政策、予算決算、法律などにも精通する必要がある。住民要望の実現のためにも建設的な、裏付けを持った論戦を展開し、理解と共感、合意と納得を得る活動を展開すべきではないだろうか。

また、インターネットの活用も、必然的に情報共有、伝達の手段として利用すべきだと思う。残念ながら、現段階では共産党の議員のサイトが行政情報や議会情報の共有には寄与しているとは考えられない。もちろん議員だけの仕事ではなく、機関の支援や支部の支援体制を考慮すべきであろう。そして、全国の共産党の議員サイトが連携し、情報を共有することが出来れば、大きな効果を発揮することが可能になるかもしれない。全国の自治体で起きている問題や議員の問題意識に関しても、学ぶべき点は多々あるだろう。この問題は、組織政党として当然取り組むべき課題ではないだろうか。

「議会に多数を得ての革命」とは。国政レベルでも地方政治レベルでも、共産党の議員が多数を占めてこそ変革が可能となる。そのために何が求められるのか。何が必要か。また、議員とは何か、共産党議員とは何か、議会の中での合意形成、理解と共感を得るための日常のあり方、問題意識。自覚的、自律的な議員活動を援助するための、支部や中間機関の支援システムをどう考えるのか。

共産党は社会と政治の変革を目指している。このことは他の党派、政党と明らかに違う。


宮本百合子の言葉がある。
共産党は外の政党と全くちがう本質に立っている。政権をとることが自分の党の利己的な利益と一致した外のあらゆる政党と全くちがう。共産党は新らしい社会をつくるための党であり、より合理的な人間関係を生み出していくための党であるから、外の政党とちがって政党の綱領そのものが、新らしいモラルに立っている。
二十年の歳月はすべての共産党員が新らしいタイプの政治家――うそをつくのが政治家だと思われていた常識の、全く反対の側に立つ一個のモラリストとしての社会活動家、政治家としてあらわれる責任を求めている。この責任は頭で理解するよりはるかに実現がむつかしい。そのむつかしさがしみじみとわかるとき、私たちが三・一五からくみとるものは、決して当時もちいられていた「はなやかなりしころ」という形容詞ではないことと思われる。


共産党の議員の立場は他党派の議員とは明らかに違う。住民の要望や要求を実現するために選ばれた、支部組織の代表であるということだ。そして、社会と政治の変革を目的としているということ。『住民が主人公』『国民が主人公』の社会、政治の実現こそが目的なのだ。

参議院選挙は終わった。

なぜ、昨年の総選挙からの一年簡で90万もの人たちの『こころ』が共産党から離れたのか。

深く深刻な問題があるのだろうと思う。しかし、共産党が共産党として戦っていたのだろうか。多数の国民、多数の市民の「心に届く言葉」で語っていただろうか。道理ある議論、理解と共感を得る話が出来ていただろうか。「独善的」、「何でも反対」と見られてはいなかっただろうか。国政でも、地方政治でも日常的な信頼と共感を得る活動が出来ていただろうか。

「共産党」とは何か。共産党の原点とは何か。

共産党の後退という結果で終わった2010年の参議院選挙。WEB上でこの問題について言及しているサイトを見てみた。

◆BLOG BLUES : 共産党が小選挙区で勝ってこそ政治は変わる

◆きまぐれな日々 参院選で民主党惨敗、自民に改選第一党を許す

◆共産党に入れなかった人のご意見募集中! – おっはー!

◆ポラリス?ある日本共産党支部のブログ 党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け・・・

◆土佐高知の雑記帳 党名変更論について

◆たかしズム「ネトウヨ、バカウヨ、ネット右翼、恥さらし、売国奴、日本の恥」を語るための、たかしのブログ: 日本共産党の「党名変更」について

◆JCP党員・支持者の“奇妙”な投票行動 – コミュニスタ紅星の幡多荘草紙 ?取り戻そう 共生の国・日本。?

◆共産党はなぜ負けた? – Looper’s Log

◆SIMANTO114残日録 479:共産党の長期低迷に物申す

◆JBL4344とプラスα : 参院選総括の視点
◆JBL4344とプラスα : 共産党の原点とは
◆JBL4344とプラスα : 回路を外に開いて

◆村野瀬玲奈の秘書課広報室 | 共産党差別
◆村野瀬玲奈の秘書課広報室 | 社民主義政党や「護憲政党」を批判する前に

◆盛り上がらなかった参議院選挙と日本共産党結党以来の危機 – 逝きし世の面影
◆共産党の歴史的敗北を分析する(1) – 逝きし世の面影
◆共産党の歴史的敗北を分析する(2) – 逝きし世の面影
◆共産党の歴史的敗北を分析する(3) – 逝きし世の面影


◆超左翼おじさんの挑戦 | 異なる考え方にも「そうですね」
◆超左翼おじさんの挑戦 | 共産党なしの革命
◆超左翼おじさんの挑戦 | 驚くほどの共産党の深さと豊かさ
◆超左翼おじさんの挑戦 | 共産党の深さと豊かさ・1
◆超左翼おじさんの挑戦 | 共産党の深さと豊かさ・2
◆超左翼おじさんの挑戦 | 共産党の深さと豊かさ・3
◆超左翼おじさんの挑戦 | 共産党の深さと豊かさ・4

◆超左翼おじさんの挑戦 | 共産党の深さと豊かさ・完
◆超左翼おじさんの挑戦 | 抽象的な「政党というもの」はない


日常活動そのもののあり方からの問い直しが必要、と思う。国民が主人公であるなら、『共産党目線』でなく『国民目線』で語るべきとの指摘。(浅井基文氏)

選挙前にはこんな意見もあった。
◆コラム|21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ
日本共産党への辛口提言?ふたたび埋没することがないように?


◆ブログ時代の共産党大会:ペガサス・ブログ版:So-netブログ
◆「平和共同候補」運動への赤旗の批判について:ペガサス・ブログ版:So-netブログ
◆共産党の大会決議案について-これで九条が守れるか?:ペガサス・ブログ版:So-netブログ


未だある「差別と偏見」をいかなる活動で乗り越えるか、「アカの壁」は自然溶解はしない。

「共産党」という党名について

●共産党宣言
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「共産党宣言」序文
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/3458_12364.html

共産党宣言(目次)
http://www.geocities.jp/osaka_multitude_p/gakushuu_bunken/sengen_mokuji.html

電子図書館 書籍デジタル化委員会


宮本百合子 共産党とモラル ――三・一五によせて――青空文庫より

共産党とモラル
――三・一五によせて――
宮本百合子

三・一五というと、今日では日本の解放運動史の上に、知らない人のない記念日となった。四・一六とならべて今年もわれわれに記念される日であるけれども、大体こういう記念日の今日へのうけとり方というものはよく考えてみると、決して通り一ぺんのものではないと思う。三・一五の私たちへつたえる教訓は、一九二八年におこった大規模な共産党と共産主義者に対する弾圧は、これを機会に日本の治安維持法が改悪され、特高警察がおかれ、検事に思想係が出来たというだけのことではなかった。私どもがもっとも銘記すべきことは、この三・一五の被告であった指導者のうち、非常に多数の人が今日の日本の民主化をあらゆる方法で邪魔している階級的裏切者に顛落している事実である。

佐野学、鍋山貞親、三田村四郎などという今日の勤労階級の敵は三・一五事件のときの日本共産党の指導者たちであった。
同じ三・一五の被告であった徳田球一、志賀義雄などの人々が、永い獄中生活にもかかわらず、一九四五年十月に解放されてからすぐ共産党の合法的活動に着手したことを思いあわせると、私たちは同じ共産党員といわれる人々の中に、非常な大きい差別があることにおどろく。

同じ共産主義者といっても、困難な条件におかれたとき、佐野、鍋山、三田村のように共産主義の理論を、自分の身を守るに都合のよいようにねじまげて安全をはかり、しかも治安維持法のなくなったあとまで、勤労階級の民主化と解放を邪魔しつづけている事実は、すべてのまじめな人々を深く考えさせずにはおかない。

今日日本の共産党は十万の党員を組織している。私たち一人一人がみなその十万の一部をなしている。三・一五が二十年目の記念の日をむかえるとき、すべての党員は自分たちがどんなたよりになる党員であるかということについて、よく自分をしらべてみるべきであると思う。なぜなら治安維持法そのものはなくなっても、日本の民主化の現状をみれば勤労階級の当面している困難は決して単純でない。佐野、鍋山、三田村達がさかんに策謀している組合、労働組合の民主化運動に対し組合員党員の一人一人がどんなに正しくまたひろい実際性をいかして闘っていくかということを、改めて考えてみるべき日でもある。三・一五の記念日をあの時代のこととして、ただ暦の上でだけ記念するならば全く意味はない。ひっくるめて、三・一五といってしまえば、そのなかには今日私たちがはっきり敵として理解しなければならぬ人々をもふくんでいるのであるから三・一五を記念するならば、三・一五の検挙を通じて今日まで一貫して勤労階級の解放のために闘いつづけている人々を記念しなければならない。今日の社会事情と党の合法性とのなかで三・一五のほこるべき伝統は、私たち一人一人のなかにどんな具体的な今日の形でうけつがれているかということこそ見極められなければならない。三田村たちが非合法活動の方便に名をかりて、放蕩していたことはすべての文献にのこっている。今日封建性に反対するという名目で私たちの間に性的な放恣がないであろうか。インフレーションはたれの経済生活をもうちこわしている。インフレーションに名をかりて、金の上でのルーズさが案外見のがされているところがあるのではないだろうか。勤労階級の解放というような大事業をめざしている共産党員がそういうことについて気をくばることは私的な些事であるかのように言う人がある。しかし三・一五の顛落者が金と女にルーズであったことを忘れてはならない。それからのちあらわれたスパイも金と女にきたなかった。金と女というものは現代の社会でもっとも卑俗な欲望の対象であり、また社会矛盾の表現である。

市民的なモラルの基準になるこういうことさえも、私たちは本当に純潔な階級活動家としてまじめに理性的にとりあげていかねばならない。

共産党は外の政党と全くちがう本質に立っている。政権をとることが自分の党の利己的な利益と一致した外のあらゆる政党と全くちがう。共産党は新らしい社会をつくるための党であり、より合理的な人間関係を生み出していくための党であるから、外の政党とちがって政党の綱領そのものが、新らしいモラルに立っている。

二十年の歳月はすべての共産党員が新らしいタイプの政治家――うそをつくのが政治家だと思われていた常識の、全く反対の側に立つ一個のモラリストとしての社会活動家、政治家としてあらわれる責任を求めている。この責任は頭で理解するよりはるかに実現がむつかしい。そのむつかしさがしみじみとわかるとき、私たちが三・一五からくみとるものは、決して当時もちいられていた「はなやかなりしころ」という形容詞ではないことと思われる。
〔一九四八年三月〕


「共産党は外の政党と全くちがう本質に立っている。政権をとることが自分の党の利己的な利益と一致した外のあらゆる政党と全くちがう。共産党は新らしい社会をつくるための党であり、より合理的な人間関係を生み出していくための党であるから、外の政党とちがって政党の綱領そのものが、新らしいモラルに立っている。」

「党名問題」に関しても基本的な立場からいえば、普通の政党になる必要はない。共産主義に対する誤解や偏見が依然として存在するし、また、新たな誤解や偏見は産み出されるだろう。合法的、かつ論理的な次元での反権力、非権力の活動であっても権力側からの抑圧は無くならない。貧困と格差の問題などは政治と社会を変えない限り、解決できない根源的な段階になっている。・・・と思う。

アメリカやヨーロッパにおいて、資産家階級と多数の国民との格差がどれほどものか、世界中で貧困と格差の問題は深化しているのではないだろうか。政治権力を握ったものが、より豊かに富を独占していくのは資本主義の当然の帰結であろうし、努力したものが報われるとか、自由主義こそが民主的な社会形態などというのは欺瞞でしかない。もともと最初から公平、公正な社会ではないし、それは幻想でしかないのだから。

存在が意識を規定する。生まれた環境や、教育によって人間の考え方も努力の仕方も違ってくる。決して「個人責任」によって生きていける訳ではない。人間の能力はみな等しく備わっているものでもないし、努力や頑張りだけで「生きる力」を発揮できるものでもないだろう。

鬣を震わせながら、「格差があって当然」と言い切る政治家の存在こそが淘汰されるべきなのだ。「核廃絶」を口にしながら、「核抑止力」は必要とのたまう矛盾。最少不幸社会をいうなら、自らの矛盾を解決する方が先だろうと言いたい。立場を口にして、自らを正当化することがいかに不信感を招いているのか気づいていないのだろうか。

共産党が共産党たる所以は、こうした政治と社会の現実を変革するために、議会の多数派になるという手段によって実現しようとしている、と考える。そのためにこそ、多数の人々の理解と共感を得る働きが必要だと思う。何も他人に尊敬される人間になれなくても、信念を持って「聞く力」「心に届く言葉を」で語るなら、多数の共感を得ることはできると考える。だからこそ、共産党は「共産党」でなければならない。

共産党という名で、戦前、戦中を、戦った人たち、また戦後の一時期には誤った方針をとったこともあった。しかし、政治と社会を変革するために権力の抑圧、攻撃に屈せず社会主義、共産主義の理論的立場から権力と対峙したことは事実だし、そのために反共的な攻撃を加えられた。命を失ったものもいる。冤罪に陥れられたものもいる。そういう歴史を、共産党は生きてきたのではないだろうか。

共産主義という妖怪が、格差と貧困を根絶するために大資本とアメリカの世界戦略に戦いを挑むのだ。

そためにも、『議会の多数を得ての革命』という道しかないのではないだろうか。地方政治でも、国政でも民主主義的な活動の中でしか、多数派への道はない。